2014-10-01から1ヶ月間の記事一覧

善意も、それにまつわる感謝も、さりげないからこそ活きてくる。

頑張ればなんとかなることなど、所詮は大したことではない。

一人では生きていけないが、さりとて隣には誰もいてほしくはない。

偉そうなことを言うためには、どうしたって敵が必要になってくる。

人の幸せだなどというものは、陰からそっと覗き見るくらいがちょうどいいのだ。

生きるか死ぬかではなく、おまえ死ね。

どうせいつかは死ぬ。私でもだ。

なにもかも、本当によくわからない。

路傍の石は拾われることを待っているのだろうか。

たぶん、肉よりもうどんの方がえらい。

成功に説明は不要だが、失敗にはいくつもの説明がつく。

出来ることなら、白骨化するまで見つかりたくない。

子供は可愛がられるべきである。悪いことをすれば怒られるべきである。ちょっとした怪我をするのは当然である。恐いものがあって当たり前である。まわりに同じ子供が入れば、親しくしなければならない。ケンカもして当然である。叩いたり叩かれたりも経験で…

おれが謝って済む程度の問題なら、それほど重要な問題ではないはずだろ?

自己満足と社会的地位がリンクしているのならば苦労はない。

人間としては失格かもしれないが、そんな自分が大好きだ。

つまりなにが言いたいのかというと、なにも言いたくないのである。

キミが楽しめるなら、なんだっていいんだ。

知らないうちに仕様変更されている我が人生。

意外に思われるかもしれないが、私は常に必死だ。

正直でバカを見ないために必要なことは、嘘をつくことではない。黙ることだ。

忍耐と屈辱は主観的には同義として扱うべきである。なにも恐れることはない。

私の声は、どう聞いても悪役声だ。

どういうわけなのか滅多矢鱈と犬に懐かれるのだが、犬と付き合うつもりはさらさらないのだ。

どうも認識にズレがあるように思えるのだが、言うまでもなく私は遊んでいるつもりだ。

結末に向けて伏線も張らずにその場の雰囲気だけで盛り上げる物語というのは、つまり「シナリオがダラシない」である。

大小の区別、硬軟の違い、思想イデオロギーに関係なく、ふくらみは大切だ。

今やるべきことを明日にまわしているようでは真の愚か者とは言えない。本当に人生を浪費したいのならば、今のことなど考えず、明日だけを見据えて生きねば。

果てまで走るならば、まずは「果て」を定義しなければならない。

バカどもの中で、大バカが「この糞バカどもが」と毒づいている。それがすべての始まりだ。