1箱440円とか、ありえませんよ。


 いまでこそ私はひどい胴間声で、ちょっと大きな声をだそうものなら、あっというまにその場がまぐろのセリ市のようになってしまうのだが、幼い頃は天使の歌声と称されるほどのボーイソプラノであった。
 幼年期のことゆえ、私自身は記憶が曖昧なのだが、当時は奇跡の歌声と評判であったらしく、ちょっと鼻歌をものしただけで真冬にもかかわらず桜が満開になっただとか、おっかあが産気づいた、ババアの腰が針金でも飲んだようにピンと伸びたなんていう話を親類縁者から聞かされたことがある。
 圧巻は幼稚園年少組の学芸会の時の逸話で、私が歌いだしたとたん、その場に列席していたオッサンたちの髪がみるみるうちに豊かになっていき、のどかだった学芸会がまるでヒッピーの集会のごとき様相を呈してしまったという。翌年の学芸会には、噂を聞きつけた頭髪の残念な方々が集まり、全校生徒の五倍もの保護者が集まったらしい。
 さすがにここまでくると私も半信半疑で、せいぜいが奥様連中の肌がツヤツヤになった程度のことだろうと思うのだが、真顔でキリストが復活したのも人類が月に到達できたのもクララが歩けるようになったのも全部おまえの歌声のおかげだと言われると、ひょっとしたらそうなのかもしれないと妙な気分になってくる。
 たしかに『アルプスの少女ハイジ』のオープニングテーマは子供の頃よく歌っていて、いまでもそらで歌える。だとすると、『フランダースの犬』でネロとパトラッシュが壮絶な最後を遂げたのは、私が歌を覚えられなかったからなのかもしれない。すまない、ネロとパトラッシュ。
 成長するに従って私の声は少しづつ低くなっていき、中学校に上がる頃には若山弦蔵ばりの魅惑の低音ボイスが完成されていたのだが、さらに長じて喫煙の悪癖を身につけると状況は一変する。
 煙による喉の炎症は私の声帯を破壊し、声にはひどい雑音が混じるようになった。ニコチンによる舌の痺れと、付着したヤニが歯の質量の均衡を狂わせたことで滑舌が悪くなった。
 さらには元来の声の大きさが災いして、なにか喋れば周辺の犬が呼応して遠吠えをはじめる。カラスが一斉に鳴きだす。火災報知器が連動して鳴りはじめる。火山の噴火、地震津波、イナゴの大発生も起きた。
 現在、私が周囲から無口で陰気な人間と思われているのは、すべて、こういった天変地異から世界を守るためである。私が元来の陽気さを発揮してしゃべりまくろうものなら、『北斗の拳』のような暴力と恐怖が渦巻く荒廃したYouはShockな世界になっているはずだ。
 しかし、21世紀も10年を迎えたいま、私はしみじみと考えた。世界は守れるかもしれないが、私の幸せはどうなるんだと。
 気がつけば、天使の歌声を備えた麗しい少年は、日々抜けゆく頭髪と突き出す腹肉に苛まれるオッサンに成り果てた。酒は飲めない、パチンコひとつ打ったことがない、女は声をかけるそばから逃げていく。身につけた悪徳といえば、それこそタバコくらいなものだったが、そのタバコこそが今日の私の不幸を招いたのである。
 ならば、タバコをやめたらどうだろうか。人が変わるのに、年齢は関係ない。幸い、199X年も過ぎたので、世界が北斗の拳化する恐れもないはずだ。
 私は禁煙する。