秋葉で骨董品。

 勘が鈍るだなんていうように、かねて得意であったことでも、長いことなおざりにしているといまひとつうまく運ばないということがある。ちょうどいまがそんな調子で、そろそろ日記の更新でもせにゃならんと思い立ち、またぞろ駄文を書き散らかそうと思ったのだけれど、いざキーボードのまえに腰を据えるとなにを書いたらいいものやらちっとも頭が働かない。しょせんはばかばかしい戯言しか書かないのだから思い浮かぶままに打てばいいと思うかもしれないが、そこは凝り性の浅はかさで書く以上はなにかネタがほしいと、ない知恵を絞りこむことになる。そうやって絞りこんだあげく、結局なにもでてこないのだから困ったものだ。浅はかを掘り下げても馬鹿が露呈するだけである。
 困った困ったと一人ぶつぶつ呟きながら、自分がいぜんに書いた日記のページを開く。他人の書いた文章からネタを失敬したら盗作だけれども、自分が書いたものからなら、うっかりおなじことを書いちゃったよなんて言い訳がたつだろうなんて思ったりする。ここまでくるともはや恥の上塗りである。怖いものはないのだ。
 なかばふてくされながらページをたぐっていくと、2004年2月4日の記述。“神田古書店街にて沖積舎版『富士に立つ影』白井喬二を入手”(原文より意訳)とある。おう、ちょうどよいところで、私はいま問題の『富士に立つ影』をバリバリと読み進んでいるところなのであった。
 積ん読まみれの私にとって、購入から読み始めるまで二年だなんてのはまあざらなのだが、この『富士に立つ影』はちょっと事情が異なる。読みたくても読めなかったのである。右上にある写真では小さくていささかわかりづらいかもしれないが、二年まえに手に入れた沖積舎版はとにかくでかいのである。高さ22センチ、横17センチ、幅6センチ。重さが約1キロ。京極のレンガ本なんか目じゃない。まさしく鈍器である。あの『ハイペリオン』でさえ周囲からいぶかしげな視線しきりであったのに、こんなシロモノをまかりまちがって通勤電車のなかになど持ちこもうものなら、即座にテロリストとして取り押さえられてしまうこと必定なのである。
 いまの私の生活では読書に割ける時間は通勤中の電車内くらいしかないのだけれど、いくら読みたいからといってさすがにテロリストにまちがえられるのも難儀なので、この二年間、折に触れては書棚に収まった箱入りの『富士に立つ影』を撫でさすりながら読めん読めんと涙に暮れていたのであるが、先日、たまたま立ちよった秋葉原の古本屋で富士見書房時代小説文庫版『富士に立つ影』を発見。この二年間探しつづけていたのはちくま文庫版全十巻のものだったのだが、いまいち相性があわないのか一冊として見つけることができないでいたのである。富士見の時代小説文庫版は全七巻で、見つけたのはうち一巻から六巻まで。この機を逃すと一生読めそうにないので、最終巻はオンライン書店ででも探すことにして一括購入。
 二年間胸につかえていたしこりがようやくとれたという安堵もひとしおだけれど、いまをさかのぼることおよそ80年まえ、大正13年に新聞連載小説として発表されて大衆の広い支持を集めた作品を、ある意味21世紀の日本社会を象徴する街、秋葉原で手に入れた偶然もなかなか感慨深い。