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 先日のことだ。朝の通勤電車内ではどんなに混雑していようと読書にいそしむのが私の習慣なのだが、ふと目を上げると、まえに立つおばちゃんが同じ本のまったく同じページを読んでいた。ハーヴァード大学で象徴学を教える教授とナイトの称号を持つエロおやじが、殺された祖父が遺したダイイング・メッセージを解こうと必死になっている娘に、聖杯ってほんとはコップじゃなくって人間の女のことなんだぜと講釈を垂れているシーンだ。奇遇なこともあるもんだと感心していたら、さらにまえ、座席に座っているおっさんも同じ本を読んでいた。ここまでくるといささかうんざりする。いったい、あの電車に乗っていた人の何人が『ダ・ヴィンチ・コード』を読んでいたのだろうか。
 たしかに、面白い小説である。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画に隠された謎、キリストの生涯とマグダラのマリアと呼ばれる女性に秘められた謎、それを解くことで明らかになるローマバチカンの二千年にわたる陰謀、そしてそれを知らしめんとする殺された秘密結社総長の遺した数々の暗号。引きも切らぬ魅力的な謎の提示と明快な謎解きの連続は、オカルトチックな好奇心と知識欲を大いに刺激し、スピーディーな場面展開もあわさってもう少しもう少しと思っているうちあっというまに読み終わらせてしまう。読書感覚がなにかに似ていると思ったら、ロバート・ラドラムに思い当たった。派手なアクションシーンこそないものの、謎を小出しにして読者をじれったくさせるところや、次から次へと危機を作りあげて主人公のスーパーマンぶりを誇示するところがなんとなく思い起こさせる。ついでに言うと、謎を引っぱりすぎて最後の謎が明らかになったときにはすでに話の底が割れているところなんかもそっくりだ。
 すらすら読めて面白いならばそれはそれでけっこうなことなのだが、性根のねじくれた私はどうも首をひねってしまうのだ。だからって騒ぎすぎだろ。右を向いても左を向いても『ダ・ヴィンチ・コード』って、他に読む本ないのか? 読み終わったら今度は『ハリー・ポッター』か? 『レックス・ムンディ』読めよ。せっかく文庫版解説で荒俣宏がおすすめしてるんだから。荒俣宏が自分の本のセールスやるなんてめったにないぞ。
 いや、だいたいにして荒俣宏にも責任はあるのだ。あんたテレビでベタぼめしすぎだよ。まるでここに書いてある謎はすべて真実ですって言ってるようなもんじゃん。あんたわかってんだろ、『ダ・ヴィンチ・コード』で披露されている謎は日本でこそまったくなじみがないものの、ぜんぶ昔からあった早とちり勘違いデッチアゲのたぐいで、現在ではそれらに反論する対抗資料も出揃って本当は謎なんてものはひとつもないって。博覧強記のオカルトマニア荒俣宏ならばそれくらいのことはとっくのとうに承知しているはずだ。それがテレビのアホバカえせドキュメンタリー番組で白痴みたいなツラさらしたタレントたちといっしょになってすごいを連発してたら、そりゃみんな信じるよ。たったひとりで全七冊もの博物図鑑を編纂した博物学荒俣宏であるからこそ、はっきりとこれはフィクションだと明言すべきだったのではないのか。べつにいいではないか。作中で言及される謎が真実であろうと虚構だろうと、『ダ・ヴィンチ・コード』という作品が無類の面白さを誇ることにかわりはないのだから。
 ちなみに通勤電車で得難い経験をした同じ日、昼休みに本を買おうと書店に行ったところ、まえに並んでいたにいちゃんがまったく同じ本をレジに差し出していた。私はうなだれて『ダ・ヴィンチ・コード』下巻を購入した。