心せわしきこの世のなか、傾いてごらんにいれましょう。(其の三)

 つまらない束縛やくだらないしがらみから放たれ、流れる風のように自由気ままに生きたいと夢見る身の程知らずな男どもから憧憬と崇拝を集める前田慶次郎利益ですが、そんな彼を主人公とした物語は、なにも『花の慶次』だけではありません。そもそも隆慶一郎一夢庵風流記』(新潮文庫)がなければ、これを原作として『花の慶次』が描かれることはありませんでした。
 隆慶一郎本人は、『一夢庵風流記』のあとがきで、前田慶次郎を主人公に据えた作品を書いたきっかけを、かつて映画の脚本家業をしていたときに司馬遼太郎原作で一作手がけたことがあり、そのときの主人公が安土桃山時代に実在した武将前田慶次郎だったと述べたうえで、資料を調べるうちにいずれこの人物を主人公にした小説を書きたいと思うようになったと記しています。
 余談ですが、このとき制作された映画が石原裕次郎主演、監督枡田利雄による1965年の日活映画『城取り』。残念なことに未見なのですが、あらすじを読むかぎりではたしかに主人公の性格設定は前田慶次郎に似ているものの、役名は車藤三となっております。さらに原作小説である司馬遼太郎城をとる話』(光文社文庫)でも主人公は車藤三となっているとのこと。この小説を脚本化するに当たって、いったいどこで前田慶次郎の名が出てくることになったのか。二人の著者、そして監督が鬼籍に入ってしまわれた以上、真相は闇のなかです。
 閑話休題。同じく『一夢庵風流記』のあとがきで、著者隆慶一郎自身が前田慶次を主人公とした先行作品について触れています。書名が明らかにされていないものの、戦前に読んだと語っていることから、おそらくは昭和17年に文松堂から刊行され、現在では文春文庫に収録されている海音寺潮五郎の『戦国風流武士 前田慶次郎』のことではないかと。
 この小説、隆慶一郎本人もあまり印象に残らなかったと述べているとおり、いささか感想に戸惑う内容でございます。太閤秀吉の命を狙った盗賊石川五右衛門や、出雲の阿国を仕立て上げて歌舞伎の始祖となった名古屋山三郎などを配して前田慶次郎に関するエピソードを俎上にあげてはいるものの、逸話をばらまいただけで物語としての序破急に欠けるとでも申しましょうか。ありていにいってたいして面白くもないんですわ。そもそも格調高い海音寺潮五郎なだけに書き方が違うと言ってしまえばそれまでの話なんですが、一番の難点はこの作品で描かれる前田慶次郎に魅力を感じないという点です。石川五右衛門の秀吉暗殺計画を知るや狼狽し、阻止しようとして翻弄され、そうかと思えば美少年名古屋山三郎に言い寄られると困惑して逃げまわる。男色の趣味はないと言いつつも、天下三美少年と謳われた山三郎から媚びを売られてへどもどと言いつくろう慶次郎の姿は、なかなかほほえましい反面、やはりちと情けない。

戦国風流武士 前田慶次郎 (文春文庫)

戦国風流武士 前田慶次郎 (文春文庫)