心せわしきこの世のなか、傾いてごらんにいれましょう。(其の四)

 前回、海音寺潮五郎による前田慶次郎は品が良すぎて豪快さに欠けると書きましたが、それならこちらはどうでしょう。南條範夫傍若無人剣』(春陽文庫)。そう、あの『シグルイ』の原作である『駿河城御前試合』の作者です。名高い残酷時代劇の大家が描く前田慶次郎。なにか読むのが空恐ろしくなってきそうですが、いざ読んでみるとこれが意外なことに微笑ましい爽快感に満ちております。冒頭から浮気をなじる女に詰め寄られて逃げまわり、女をとられた腹いせに闇討ちしてきた男どもを叩きのめし、そうかと思えば己のことなど棚に上げて、叔父前田利家の若い妾狂いに腹を立てて水風呂に突き落とす。これらすべてを快活に笑ってやってのけるのですから、まさに天真爛漫、豪放磊落、そしてまさしく傍若無人。もっとも豪快にすぎていささか男としての気高さや武士としての深みに欠けるきらいはありますが、B級娯楽作品ならではの痛快な面白さです。
 隆慶一郎なら『一夢庵風流記』、海音寺潮五郎は『戦国風流武士』、南條範夫こそ『傍若無人剣』でしたが、史実をふまえて実在の人物を描いている以上、ほぼ前二作と同一のエピソードが語られています。つまるところ、前田慶次郎という人間をいいあらわすならば、風流という言葉が重要な要素となってくるのでしょう。そしてもう一作とりあげるのが、村上元三で『戦国風流』(学陽書房人物文庫)であります。なんだかどんどんタイトルが簡素化されてずばりそのまんまって感じですが、同じ風流でもこれまでの作品にはもうひとつ、豪快な傾奇武者という側面があったのに比べ、こちらの前田慶次郎はかなり異色です。幼き日に織田信長による比叡山の全山焼き討ちを目の当たりにして以来、戦をきらい、長じてからは信長、秀吉から金をもらって各地で戦の火種を消して歩く和平外交官のような働きをしつつ、申楽師乗阿弥とともに能舞踊の芸者として戦国の世を渡り歩く。つまり風流といっても侍の風流ではなく、どちらかといえば芸者としての風流に近いものがあります。世が徳川に移り、群雄の割拠する時代が終わると世捨て人となって往来で茶を売って歩く晩年がなんとも涼やかな余韻を残して鮮やかです。