2027年へ。

 日中、読書。関川夏央戦中派天才老人・山田風太郎』(ちくま文庫)読了。
 夜、一昨年の年末より録画しっぱなしだったNHK教育のドキュメンタリー番組「山田風太郎が見た日本 未公開日記が語る戦後60年」を観る。深く胸に染みこむ。
 観終わったのち、煙草などくゆらせながらぼんやりと考える。山田風太郎が後世の残るとすれば、それは偉大なる大衆娯楽作家としてか、それとも戦中から戦後にかけての激動期を冷静に記録し的確に分析してのけた列外の傍観者としてか。
 小説というものは良かれ悪しかれそれを書いた作者の思想、心情、経験則などが色濃く反映されるものである。そういう意味では列外の傍観者であった山田風太郎だからこそ描き得た物語として、前述で比較したふたつは密接不可分である。
 しかし読者はちがう。忍法帖や明治物を読む人間は、その物語に胸躍らせるのであって、作者山田風太郎の生涯に感銘を受けるのではない。
 そしてまた、昭和史の研究という観点からすれば、山田風太郎の膨大な日記群があれば小説の方は必要なくなるだろう。
 いまはまだ書店の店頭で両者を同時に手にすることができる。あと三、四年もすれば没後十年でもう一度くらいリバイバルがくるだろう。そのときには珠玉の物語と第一級の史料が両輪となって、人間山田風太郎にスポットがあてられるかもしれない。だがその後はどうか。
 いずれ、日記群は知る人ぞ知る昭和史資料となって人々からは忘れ去られ、小説の方も抜群に面白いが古典がゆえに読者から顧みられることがない状況になっていくかもしれない。
 結果はあと二十年ほどすればわかるだろう。いまから楽しみだ。