七不思議とはいったものの、ほかの六つは思いつかない。

 先日のことだ。朝の通勤電車内ではどんなに混雑していようと読書にいそしむのが私の習慣なのだが、ふと目を上げると、まえに立っていた妙齢の女性が志水辰夫の『行きずりの街』(新潮文庫)を熱心に読んでいた。ちらりとお顔を拝見してみると、なかなかの美人である。これに『行きずりの街』を読んでいるという事実をかけあわせると、三割がた美しさがアップする。世の女性たちは私なんかが見るとその必要はないだろうってくらい外見を磨くことにこだわっていらっしゃるが、その意志と努力は尊重するにしても、無駄なダイエットだの化粧品だのに金と労力をつぎこむより、『行きずりの街』一冊読む方がよほど美しくなると思う。
 しょっぱなから話題がそれたが、志水辰夫の『行きずりの街』である。なんだか知らないが、この小説、バカみたいに売れている。いたるところで平積みになっているし、大きな書店にいくとレジまえや店舗入り口に専用の台まで置いて100、200とこれでもかってくらい陳列してある。しかもそれが、はたから見ていてもけっこうな人が手に取っていくのだ。『ハリー・ポッター』や『ダヴィンチ・コード』、村上春樹がいくら売れようとふーんと思うだけだが、これが『行きずりの街』となるとなぜかむしょうにうれしい。
 最愛の妻に逃げられ、高校教師の職も追われて田舎でしがない塾講師をする四十男が、行方不明となった塾の元教え子を探すために東京にくると、教え子の失踪には自分が追放された学園が関与しており、さかのぼれば十年まえ、家庭が崩壊する発端となったスキャンダルも学園がしかけた罠だったことがわかる。主人公は失われた過去をとりもどすため、おのれを絡めとる陰謀に戦いを挑んでいく。
 こうやってあらすじだけ書きだすと、この小説はまぎれもないミステリーである。であると同時に、この小説にはもうひとつ重要な側面がある。最愛の妻というのが主人公が高校教師であったときの生徒であり、スキャンダルとは現役教師による教え子との不純異性交遊を指し、失われた過去をとりもどすを逃げた女房とよりをもどすと読みかえれば、これは純然たる恋愛小説である。そしてこの小説を傑作たらしめているのは、恋愛小説として抜群の輝きをはなっているからだ。
 恋愛小説といってもいろいろあるが、昨今はやりの呼んでもいないのにいま、会いにゆきますとか、恥も外聞もなく世界の中心で叫んじゃったりするような、ああいうあつかましいものじゃない。もっとつつましやかで、それゆえに濃厚な深みのある、濡れたガラス越しに見る都会の夜景のようなきらめきが、この作品にはある。たとえば物語の序章に当たる部分で、主人公がはじめて別れた妻に会いにいくシーン。道すがら「自分の一生を賭けた恋愛が、あれほどいやしく貶められ、糾弾され、学園と東京から追い払われた無念さは、いまでも絶対に忘れることができなかった。」と回顧させ、妻が現在営んでいる店のまえに立ったとき、「にわかにためらった。後悔しはじめている。来るべきではない、という意識の正当性が警鐘を鳴らしているのだ。それでも引き返す気になれなかった。この扉の向こうになにが詰まっているのか、わかっている。わたしの過去のすべてがある。」と、読むものの心胆をこれでもかと期待させる。はじめのセンテンスで主人公の気持ちを追体験させることで読者を引きこみ、次の一文でじらし、同時にワンテンポ置くことで読者が理想の女性像を思い描く余裕をあたえている。そしてこうくる。「カウンターの中に入りかけていた和服の女性が振り返った。こちらを見て笑みが瞬間的に引っ込んだ。わたしの抱き続けていた範囲のイマジネーションから、彼女はいささかもはみ出してはいなかった。」
 素晴らしい。これ以上に鮮烈なヒロインの登場があろうか。にもかかわらず、女性の外見的な特徴にはいっさい触れていない。しいてあげれば、和服着用ということぐらい。だれだって、これを読んで泉ピン子を思い起こしはしないだろう。私は吉永小百合だった。
 このあと、十年ぶりに再会した夫婦の会話がまたよく、妻が主人公のまえで見せるさりげないしぐさがおそろしく官能的で、ベッドシーンにいたっては恍惚ともいえる心境にいたるのだが、調子に乗って引用していると物語全部を書き写しかねないのであきらめよう。文庫版解説において文芸評論家北上次郎が、本書をして夫婦小説と命名しているように、別れた妻の造形がじつにいい小説なんである。
 もちろん、この作品の魅力はそれだけにとどまらない。志水辰夫の作品全般にあげられることだが、ヒロインの母親や失踪した塾の教え子といった女性キャラの造形はどれも精彩に富んでいて、それら人物の絡みが見事に謎の展開と一致して進行していくプロットも巧みだ。自己憐憫に満ちた主人公のダメさ加減が、女をとりもどすことでどんどん自信を回復していくところもハードボイルドこのうえない。先が気になるという物語ではない。志水辰夫といえばこの作品をあげるファンが多いのもむべなるかな。読んでいるいまこの瞬間が心地よいという、希有な名作である。
 蛇足ながらローカルな魅力をもう一点つけくわえさせていただくなら、ご当地亀有、それになじみ深い北千住などといった土地が舞台の一端となっていることも、またうれしい。亀有駅前の両さん銅像の手に、この本を持たせてもいいと思う。
 それにしても、なぜいまになってこんなに売れるのだろうか。というのもこの作品、単行本初版の発行が1990年。じつに17年もまえの小説だ。文庫化されてからも10年以上たっているんである。それが毎週のように一万部二万部と増刷がかかり、ばさばさとさばけていく。書店さんに聞いてみても、版元の新潮社が新しい帯をかけてプッシュしてきたというだけで、それ以外にしかけらしいしかけはないらしいし、とても不思議。著者の公式サイトを見ても、書いた志水辰夫本人が不思議がっている。まちがいなく、今年の出版業界七不思議というべき奇っ怪な現象であるが、反面、それだけ売れてもおかしくはない質を備えた作品である。読めば、納得する。

行きずりの街 (新潮文庫)

行きずりの街 (新潮文庫)