メメント・モリ

 このところ、死についてよく考える。夜、眠りにまどろみながら、真っ暗な部屋のなかで寝床に横たわり、死とはいったいなんなのか、その訪れともたらされる恩恵について思いをはせる。
 ようするに、そういうことを考えるにふさわしい年頃になってきたんだろうと思う。そろそろ折り返し地点なのだろう。終着地を見据えて生きていく必要があるということだ。
 死とは無である。少なくとも私にとって、死は無以外のなにものでもない。後悔も懺悔もないかわり、慈悲も安逸もない。肉体が死んだ瞬間に、なにもかも消え去るのだ。私という意識は未来永劫、再び生まれることはない。つまり、いま、私が感じているこの世界も、その瞬間に消滅する。あとは、他の人間が、めいめいかってに世界を生きていけばいい。死とは、ただそれだけのことである。死ぬのは恐ろしい。だがそれは死に至るまでの肉体的、精神的な苦痛が恐ろしいのであって、死、そのものはなにも感じないのではないか。私はそんなふうに考えている。
 そして私はまた考える。死んだらなにもかも消え去るのはよしとしよう。しかし、死ぬまでのあいだは生きていなければいけない。重要なのは、どうやって死の瞬間を迎えるかいうことだ。言い方をかえれば、これからさきどうやって生きてゆくべきなのか。
 できれば長生きをしたい。大金持ちでもなく、かといって赤貧洗うがごとしというわけでもなく、偉くもなく、かといって人に後ろ指をさされるというわけでもなく、忙しくもなく、つねにふところ手をして日向ぼっこして生きていきたい。
 子を作り、孫ができ、曾孫が騒ぎ、玄孫がハイハイするまで生き続けたい。
 いつまでたっても曾孫の名前をおぼえず、玄孫にいたってはいることすら忘れ、正月にはこれでうまいもんでも食べなさいと、お年玉に百円玉しかあげないようなイヤなじじいになりたい。
 家族に散々迷惑をかけたあげくに畳のうえで大往生を遂げ、臨終の寸前にやおら立ちあがってトトトっと走り、そのまま壁にぶち当たって死にたい。墓碑銘は「彼は人生を駆け抜けた」。
 葬式は、家族みんながやっと死んでくれたと胸をなでおろし、参列者全員が笑って焼香するなか、安置された棺桶が突然爆発してみずから火葬するような派手なやつにしたい。
 夜、暗闇と静寂のなかでこんなことを考えながら、私は眠りにつく。夢は見ない。