君 君足らずして 臣 臣足らず


 本来、私は雑誌掲載の小説を読まない主義なのですが、こればっかりは無視できんというわけで、読みました。小野不由美十二国記短編「丕緒の鳥」。六年半ぶりの新作発表と話題になっていますが、はじめてこれを聞いたとき、いくらなんでもそんなにはたってないだろうと前作『華胥の幽夢』の奥付をのぞいてみたら、初版が2001年9月5日。ほんとだった。ついこのあいだのことだと思っていたのに。二十歳すぎると時がたつのはあっというまだという伝説は真実でした。
 じつをいうと、前作である短編集『華胥の幽夢』と、前々作の長編『黄昏の岸 暁の空』上下は、ワタクシ未読であります。これを読んでしまうともう続きが刊行されていないというのがさみしくて、わざと寝かせていたわけでありますが、そうですか、六年半も棚の肥やしと化していたわけでありますか。ずいぶんと豪勢な肥やしもあったものであります。
 最後に十二国記を読んだのが、『図南の翼』の新刊発売時。奥付を見ると1998年2月となっていますから、じつに十年ぶりの十二国記であります。おれ、もうおっさんだよ。ホワイトハートだとかって騒いでる歳じゃないんじゃないだろうか。それにしても、十年ぶりに読む新作が短編ってのも、いささかわびしい、などと寂寞にひたりつつページを開けば、あっというまに物語に没入。
 慶国で羅氏を務める下級官吏丕緒(ひしょ)のもとに、ある日大射の儀を執りおこなう命が下る。久しく空位であった王がついに見つかり、玉座に就くためであった。しかし丕緒は、幾代と続いた王の悪政に倦み、新王への祭典の意味を見いだすことができなかった。国は疲弊し、民は艱難にあえいでいる。それをかえりみずにいたずらに贅に溺れ、権に驕った王を祀る祝祭とはなんなのか。疑心渦巻く朝廷で、いわれなき密告の果てに処刑されていった仲間のために、いったいなにができるのか。見た目の華々しさだけを取り繕うことが自分の役目なのか。諦観に身を沈めながらも職務に忠実であろうとする丕緒の得た結論とは。
 まず驚くことは、主人公丕緒の設定です。国の中枢とはほど遠い一介の役人。それも、政治とはなんの関係もないお祭りの儀式を司る下級官僚であります。主人公が卑小ならば、物語もまた卑近なものに限定されるのではないかと思うとさにあらず。麓からでないとわからない山の壮大さもある。短編とはいえ、この作品のなんと貴高く、清々しいことか。
 これまでの十二国記作品というと、各国を統べる王とその分身ともいうべき麒麟を主人公に、己の出自と地位から生じる重責や懊悩を描いた成長物語としての魅力があまりにも際だっていたため、緻密な世界設定とはうらはらに、なんとなく世界観の奥行きが見えてこない印象だったのですが、今回、国を底辺で支える立場の人間を主人公に持ってきたことで、国家を形成する人々の息づかいや全体を流れる歴史観などを存在感を持って感じることができるようになりました。この六年のあいだに、小野不由美のなかで十二国記という世界がどれほど深化しかのか。それを想像すると、もはや一刻の猶予もならん、いますぐに長編を読ませろと作者に迫りたくなってきます。早くしてくれないと、私は本当に身も心もおっさんになってしまうんだ。
 短編のラスト、新しく玉座に就いた王の口から出た言葉。こたえる丕緒の誇らしさ。ネタばれになってしまうので詳しく書けないのが残念なのですが、いろいろな意味でシリーズ一作目からじっくりと読み直したくなってきます。前回読んだときとはちがう、初々しい感動を呼び起こしてくれるのではないでしょうか。十二国記初体験という人でもだいじょうぶ。むしろ、これを先に読んでおくと、シリーズを深く楽しめます。
 読み終えたとき、胸のうちから希望がむくむくとわいてくる。これはいい話です。