『まいにちいっしょ』はまちがいなく答えの一端を示していると思うんです。


 先日、いつものようにネットサーフィンに興じていたらとあるサイトが書いたビジネス書の紹介にいきあたった。実用系のビジネス解説書だなんてものにまったく興味はないので、ふだんならば即座にCtrl+Wでページを閉じるところなのだけれど、ふと視線を落とすと、ヴァニーヴァー・モーガンという単語が目に飛びこんできた。アーサー・C・クラークの傑作SF『楽園の泉』の主人公である。なにゆえ、ビジネス書の感想にSFの単語がと興味をそそられて一読してみると、「俺の中で小松左京久夛良木建が並んだ一瞬である!」だなんてすごいことが書いてあり、さらには「早くも今年のSFベストワンじゃないかと思ったりする(笑)」と、控えめながらもジャンルSF決定宣言まで出している。まったく顔も知らないブログの書き手さんとはいえ、なにがここまでこの人を熱くさせるのか。こうなっては、おなじSF者として読まなければならんという気になってくるではないか。


 まあ、冗談はさておき、とても面白そうだったので早速買ってきました。西田宗千佳『美学vs.実利』(講談社)。サブタイトルに「「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史」とあるように、初代PlayStationを開発するためにソニー・コンピュータ・エンタテインメント(SCE)が設立された1993年11月から現在までの、PlayStationをめぐる状況、そして産みの親である開発者久夛良木建の軌跡を追ったルポルタージュであります。
 80年代後半、アクション・シューティング全盛期のゲーセンではじめてゲームのおもしろさに触れ、テトリスにはじまる落ちものパズルゲームを経て、91年のストリートファイター?を嚆矢とした空前の格ゲー時代に青春を費やしたぼくなどからすると、94年の末に発売された、PlayStationセガサターン、いわゆる当時の次世代機は、ゲームに対する価値観を180度転回させるに足る衝撃を与えてくれました。『リッジレーサー』に『鉄拳』、『バーチャファイター』に「キング・オブ・ファイターズ」シリーズなどもたしかにセンセーショナルでしたが、個人的に真に驚愕したのは、95年の暮れにセガサターンで発売された『ダライアス外伝』と『レイフォース』の移植です(移植に伴って、『レイヤーセクション』と名称変更)。
リッジレーサー』や『バーチャファイター』といったポリゴン系のゲームは、ぼくのゲーム感覚からするとあまりにも見た目が違いすぎるというか、もはやそれまでのドット絵によるスプライトで構成されたゲームとは隔絶されたべつのなにかという偏見があって、正直、PlayStationセガサターンについても、それまでの2Dゲームとは断絶したゲーム機だと思っていたのですが、前述の2作が見た目はもちろん、操作感覚までほとんど完全移植されていたときは、まさしく、目から鱗どころか角膜まで落ちるほどの衝撃を受けました。さらにそれから一年後の『蒼穹紅蓮隊』、『バトルガレッガ』いたっては、もうゲーセンいらないとまで錯覚するほどでした。これらのシューティングゲームはおもにセガサターンで発売されましたが、PlayStationでは寝ても覚めてもストリートファイターZERO』ばかりやっていた記憶があります。
 それまでの家庭用ゲーム機とは次元が違うといっても過言ではないほど桁外れのグラフィック能力を持った次世代機でしたが、本書『美学vs.実利』を読むと、冒頭において、そもそも初代PlayStation任天堂スーパーファミコン用外付けCD-ROMアダプタとして開発されていたと明かされるから驚きます。しかも、ハードとしてほとんど完成、あとは発売するだけという土壇場になって任天堂から発売を反故してきたというから二重にびっくりの事実です。
 いまでこそ、DSとWiiが世界中で売れまくってゲームといえば任天堂のひとり勝ちといった様相を呈していますが、PlayStation発売以降の任天堂は凋落の一途をたどり、ゲームボーイアドバンスで携帯ゲーム市場に活路を見いだすまでは、さながらROMカートリッジという過去の栄光にすがる没落貴族というのがぼくたちの印象でした。
 閑話休題。とまれ、寸前で契約を破棄されるという苦渋に飲みこまれることなく、逆に奮いたったのが、幻となったスーファミ用CD-ROMアダプタの開発者だった久夛良木健。通称クタタンクタタンといえば、かつてマイクロソフトが生みだした魔法の言葉「それは仕様です」を、ゲームという一般庶民の文化にまで普及させた第一人者なんて印象しか持っていなかったのですが、いやはや、すごいです。本書を読むと、絶対上司にしたくありません。長大な先見の明と無双の実行力を備えた巨人です。例えて言うなら、砂漠にオアシスを作るためならまずは井戸を掘るなんてまだるっこしいマネをせず、いきなりラスベガスを建設してしまうような人といいますか。最初に紹介したブログの書き手さんにならってみれば、『地球幼年期の終わり』で地上に降りたったオーバーロードクタタンであってもおかしくない。ならば歴代PlayStationモノリスで、それを遊んで育った我々はスター・チャイルドだ。SCEファウンデーション任天堂銀河帝国だ。歌おう、感電するほどの喜びを! そして久夛良木健に花束を。
 PlayStationを開発する契機となった任天堂との確執もスリリングな逸話ですが、状況はページをめくるごとに規模を拡大させ、なお疾走していきます。本体発売前のティラノザウルスのCGを用いた技術説明会の描写などは前半の山場であり、快哉を叫びたくなるほど爽快です。たしかにあの頃、劇場に『ジュラシック・パーク』を観に行って、実写と見紛うほどにリアルな恐竜群の大移動に興奮しなかった人間はいないでしょう。かくいうぼくもそのひとりでした。それが単なる家庭用のゲーム機で再現されていれば、驚きに声をなくすのも想像できます。
 さらには、栄光を極めたともいえるPlayStation2の発売。いま考えると、DVDというメディアに対する注目度は、現在のblu-rayどころではありませんでした。それまでの重くかさばるビデオテープと違い、たかだか12センチの光る円盤に、何度観ても劣化しない鮮明な映像とクリアな音声が収録されているDVDには、まちがいなく映画の未来がつまっていると感じられました。そんなDVDが観られるPlayStation2には、ゲームの夢があるようにぼくには思えたんです。たぶん夢だったんでしょうけど。
 さて、PlayStationに関わる熱狂の頂点が2発売前後にあったのと同じように、本書の熱中的盛りあがりも2の発売をもって終わります。その後のPlayStationBBにはじまるSCEの迷走、PSXにおけるソニーの戦略的失敗、PSP発売直後の「仕様です」騒動。そして任天堂DSの台頭によるゲーム業界全体の携帯志向。本書後半からは、これら一連の事件をPS3の開発に絡めてじつに冷静に、深く鋭く考察していきます。
 なかでも繰り返し言及されるのが、久夛良木健が夢想する「新しいコンピュータ」という言葉。本書を読了したのちに、この言葉について考えると、PlayStationは良くも悪くも「新しいコンピュータ」という発想のもとに飛躍的な進化を遂げてきたことがわかります。初代PlayStationは、エンターテインメントに特化したコンピュータをゲームマシンとして開発したもの。PlayStation2は、家庭用コンピュータを凌駕するグラフィック性能を持ったゲームマシン。
 ゲーム機を越え、コンピュータを越えてしまったのならば、次に越えるべき峰はどこにあるのか。ゲームという地平はそこに広がっているのか。
 部屋にあって重厚な存在感を放っているPlayStation3を見つめながら、ぼくはふと思う。おまえはいったいなんなのだと。

美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史 (講談社BIZ)

美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史 (講談社BIZ)